2012年 09月 04日
「和の国」日本 |
数日前、いつものように街頭演説をしていると「この前の原稿に書いてあった『日本を知る』について、もう少し詳しく知りたい」と突然のうれしい要望を頂きました。前回は「外交力を高める」のテーマで、国民一人一人が身につけるには、日本の強みはどこなのか、異国にない特長とは、己の国を知ることが一歩です・・・こんな内容を書きました。日本の誇れる強みを挙げれば、このページでは書ききれません。今回は私が考える「日本」について端的にはなりますが、以下に書きたいと思います。
日本は「和の国」と呼ばれることがあります。家族の和、地域の和、自然との和、他国との和、様々な場面で日本人は「和」を重んじ、尊んで来ました。農耕民族である日本人は、何世代にも渡って同じ地域に住み続け、周りとの調和を保ち何より「和」を大切に生きてきました。「和」とは、主体性を守りつつ、他のものと協調することを云います。同じような言葉に「同」がありますが、これは周りに流され妥協をすることです。妥協とは主体性を持たず、自らの意志を放棄していることなのです。「和して同ぜず」という孔子の言葉は、まさに日本人が心掛ける根幹を見事に表現していたと言えます。
しかし最近の日本人を見ていると、残念ながら「和」より「同」の方を優先させており、「恥の文化」も忘れている人が多くなってきているように思えてなりません。特に、今の政治は、出来る出来ないはさて置き、国民に広く受け入れられるような人気取りの政策がばかりが目に付きます。そこには政治家としての国家観はなく、国民に迎合する姿ばかりが見え隠れします。外交に至っては、他国と摩擦を起こさないことが何より最優先で、この国を守る気概はあるのか?と疑いたくなるような事ばかりが散見されます。
政治は、国民の民度を反映するものです。日本の国は、今こそ構成員である私達国民一人ひとりが冷静に風に流されないようしっかり主体性を持たなければ、国家としての主体性は失われてしまいます。私達が本当の「和の国」として誇れる日本を存続させられるかどうか、今の時点では崖っぷちにいる気がしてなりません。
日本は「和の国」と呼ばれることがあります。家族の和、地域の和、自然との和、他国との和、様々な場面で日本人は「和」を重んじ、尊んで来ました。農耕民族である日本人は、何世代にも渡って同じ地域に住み続け、周りとの調和を保ち何より「和」を大切に生きてきました。「和」とは、主体性を守りつつ、他のものと協調することを云います。同じような言葉に「同」がありますが、これは周りに流され妥協をすることです。妥協とは主体性を持たず、自らの意志を放棄していることなのです。「和して同ぜず」という孔子の言葉は、まさに日本人が心掛ける根幹を見事に表現していたと言えます。
しかし最近の日本人を見ていると、残念ながら「和」より「同」の方を優先させており、「恥の文化」も忘れている人が多くなってきているように思えてなりません。特に、今の政治は、出来る出来ないはさて置き、国民に広く受け入れられるような人気取りの政策がばかりが目に付きます。そこには政治家としての国家観はなく、国民に迎合する姿ばかりが見え隠れします。外交に至っては、他国と摩擦を起こさないことが何より最優先で、この国を守る気概はあるのか?と疑いたくなるような事ばかりが散見されます。
政治は、国民の民度を反映するものです。日本の国は、今こそ構成員である私達国民一人ひとりが冷静に風に流されないようしっかり主体性を持たなければ、国家としての主体性は失われてしまいます。私達が本当の「和の国」として誇れる日本を存続させられるかどうか、今の時点では崖っぷちにいる気がしてなりません。
by naomitokashiki
| 2012-09-04 15:27
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