2007年 06月 17日
私の考え方 |
すっかりご無沙汰しております。
1月から開催されている国会が終盤を迎えています。
今年は、7月に参議院議員選挙を控えているためか、様々な問題に対し国民に対して不安感や怒りを過剰に煽り立て、世論を極端な方向に誘導していこうとする政治的意図を感じるのは、私だけではないと思います。このような政争の具とし無用な混乱を招くような状況を鑑み、私は与党の一員として「あるべき責任の取り方」を、この時期にこそ考え直してみようと思います。
「私たちは人間である以上、誰にでもミスはある」この大前提を、最近私たちは忘れてないでしょうか?いわゆる聖職者と呼ばれる教師、医師、政治家も、神ではなく所詮人間なのです。
間違いがあって当たり前。
一生懸命に尽くした結果の失敗なら、その失敗を許す寛容さも必要ではないでしょうか。
大切なのは「相応の使命感を持って職にあたっているか」ではないかと思うのです。この大前提を忘れ、最近の論調は、一度失敗をすれば、過度に「懲罰的な責任の取り方」をさせるような方法が、横行しているような気がします。ミスが発覚した時に、日本で世論の多くが求め、また見受けられるのは、「辞任」という形での「責任の取り方」です。ニュースを見る限り、政治の世界でも経済界のトップでも、マスコミはとにかく辞任させて「終わり」とする風潮がありますが、それは本当に理想的な形なのでしょうか?
果たしてこれで、本当にこれで責任を取ったことになるのでしょうか。このような職責を奪うという本人にとって一番嫌な思いをさせようとする報復的な責任の取らせ方が多いのは、感情が優先され、論理的な思考が無視されている恐ろしい社会であるとも言えます。私は、感情的な贖罪と責任のとり方は別のところにあると思うのです。
例えば、最近大変な問題となっている「年金」を例に取って具体的な事例として考えてみましょう。年金番号の一元化が済んでいない5000万件のことを、野党は「年金が消えた!ネコババされている」と称し、国民の無用な不安を煽り立てています。実際、年金はなくなっていないのです。実際は社会保険庁の仕事が怠慢で、年金番号を一つにする作業が、遅れているのです。与党は、今まで納めて頂いた年金をきっちりお支払いできるように、「時効をなくし、証明書等がない場合も対応できるように第三者機関を設けて受給権を確保し、一元化を1年以内に終了させます」という早急に、国民の皆様が困らない対応ができるように、法整備を進めようとしています。
しかし、野党は「責任」の所在と「責任の取り方」を明確にすることが、最初にするべきことだと主張しています。果たして、本当にそうでしょうか。これは例えるなら目の前で、血を流している人を救急車に運び込もうとしている時に、その行動を阻止して、「誰が原因で起こったのか。責任がはっきりするまでは、救急車に乗せられない」と言っているのと、同じことではないでしょうか。私たちが、早急にすべきことは、血を流している人を真っ先に助け、それから原因追求をして、犯人を捕まえ二度とこのようなことが起こらないように対処し、罰する。
「責任を取る」ということは、この順番で行うことではないでしょうか。被害者の心情を重んじれば、加害者に精神的、肉体的苦痛を最優先で与えたい気持ちは分かります。ただ、感情的な贖罪と責任のとり方は別のところにあると思うのです。まず最初にすべきは、被害を一刻も早く解消すること、それから原因追及をして同じ過ちを犯さない手立てを講じ、最後に償う。この順番で進めていくことが、本当の意味での「責任を取る」ということではないでしょうか。この「責任の取り方」であれば、加害者にとっても被害者にとっても社会にとっても建設的な意義がある行為になるのです。
犯してしまったミスを攻める前に、前向きに捕らえる機会として活かせるようになれば、今のような社会の閉塞感が打ち破られ、世の中は明るさと活力を取り戻していくのではないでしょうか。どんなに苦しいとき,つらいときも,「生き抜いて最後の瞬間までベストを尽くす」そんな生き方・・・。最後はどろどろになっても生き抜いていくという人生に対する責任の取り方・・・。その生き方が、素敵だ!と思える社会を、私は政治家として創っていきたいと思います。
1月から開催されている国会が終盤を迎えています。
今年は、7月に参議院議員選挙を控えているためか、様々な問題に対し国民に対して不安感や怒りを過剰に煽り立て、世論を極端な方向に誘導していこうとする政治的意図を感じるのは、私だけではないと思います。このような政争の具とし無用な混乱を招くような状況を鑑み、私は与党の一員として「あるべき責任の取り方」を、この時期にこそ考え直してみようと思います。
「私たちは人間である以上、誰にでもミスはある」この大前提を、最近私たちは忘れてないでしょうか?いわゆる聖職者と呼ばれる教師、医師、政治家も、神ではなく所詮人間なのです。
間違いがあって当たり前。
一生懸命に尽くした結果の失敗なら、その失敗を許す寛容さも必要ではないでしょうか。
大切なのは「相応の使命感を持って職にあたっているか」ではないかと思うのです。この大前提を忘れ、最近の論調は、一度失敗をすれば、過度に「懲罰的な責任の取り方」をさせるような方法が、横行しているような気がします。ミスが発覚した時に、日本で世論の多くが求め、また見受けられるのは、「辞任」という形での「責任の取り方」です。ニュースを見る限り、政治の世界でも経済界のトップでも、マスコミはとにかく辞任させて「終わり」とする風潮がありますが、それは本当に理想的な形なのでしょうか?
果たしてこれで、本当にこれで責任を取ったことになるのでしょうか。このような職責を奪うという本人にとって一番嫌な思いをさせようとする報復的な責任の取らせ方が多いのは、感情が優先され、論理的な思考が無視されている恐ろしい社会であるとも言えます。私は、感情的な贖罪と責任のとり方は別のところにあると思うのです。
例えば、最近大変な問題となっている「年金」を例に取って具体的な事例として考えてみましょう。年金番号の一元化が済んでいない5000万件のことを、野党は「年金が消えた!ネコババされている」と称し、国民の無用な不安を煽り立てています。実際、年金はなくなっていないのです。実際は社会保険庁の仕事が怠慢で、年金番号を一つにする作業が、遅れているのです。与党は、今まで納めて頂いた年金をきっちりお支払いできるように、「時効をなくし、証明書等がない場合も対応できるように第三者機関を設けて受給権を確保し、一元化を1年以内に終了させます」という早急に、国民の皆様が困らない対応ができるように、法整備を進めようとしています。
しかし、野党は「責任」の所在と「責任の取り方」を明確にすることが、最初にするべきことだと主張しています。果たして、本当にそうでしょうか。これは例えるなら目の前で、血を流している人を救急車に運び込もうとしている時に、その行動を阻止して、「誰が原因で起こったのか。責任がはっきりするまでは、救急車に乗せられない」と言っているのと、同じことではないでしょうか。私たちが、早急にすべきことは、血を流している人を真っ先に助け、それから原因追求をして、犯人を捕まえ二度とこのようなことが起こらないように対処し、罰する。
「責任を取る」ということは、この順番で行うことではないでしょうか。被害者の心情を重んじれば、加害者に精神的、肉体的苦痛を最優先で与えたい気持ちは分かります。ただ、感情的な贖罪と責任のとり方は別のところにあると思うのです。まず最初にすべきは、被害を一刻も早く解消すること、それから原因追及をして同じ過ちを犯さない手立てを講じ、最後に償う。この順番で進めていくことが、本当の意味での「責任を取る」ということではないでしょうか。この「責任の取り方」であれば、加害者にとっても被害者にとっても社会にとっても建設的な意義がある行為になるのです。
犯してしまったミスを攻める前に、前向きに捕らえる機会として活かせるようになれば、今のような社会の閉塞感が打ち破られ、世の中は明るさと活力を取り戻していくのではないでしょうか。どんなに苦しいとき,つらいときも,「生き抜いて最後の瞬間までベストを尽くす」そんな生き方・・・。最後はどろどろになっても生き抜いていくという人生に対する責任の取り方・・・。その生き方が、素敵だ!と思える社会を、私は政治家として創っていきたいと思います。
by naomitokashiki
| 2007-06-17 14:15
| 活動報告